生存戦略(旧・ラングリッチ学習記)

ラングリッチのことと、日々なんとなく思っていることとかをぶつぶつつぶやきます。

自分の英語体験を振り返ってみる①

英語を本格的に学習するに当たって、自分の英語体験なり海外体験というものを振り返ってみたい。

幼少時の体験とドイツという国

3才でドイツ・デュッセルドルフに、親の仕事の関係で住み始めた。
ドイツはドイツ語メインではあるのだが、英語もそこそこ通じる。
欧州が地続きであることと大いに関係があるのだろう。
父親の出張などもあり、欧州の主要国は大体回った。
そこに特に感慨とかはない。
僕はルーブル美術館に行っても、ショパンの家に行っても、
親について回っているだけで一言も発さずゲームボーイでゲームをやっていたからだ。

ところで、デュッセルドルフというのは日本人が最も多く住む都市だ。
日本で言えば横浜とか神戸を連想するといいのかもしれない。
そんなわけで、僕は現地校ではなく、日本人幼稚園・小学校で小2まで過ごした。

そこに、Marisaという女の子がいた。
彼女はおそらくドイツ人だった。
なぜ日本人幼稚園にいたかは定かではないのだが、なにか国際教育の一環だったのだろうか。
Marisaは常に泣いていたという記憶がある。
思えば僕は、ドイツにいながらにして、なぜかドイツ人が学校で言葉が通じなくて泣いているという訳の分からない事態に遭遇していたのだった。

もう一人、Naoという女の子がいた。これは自分ではなく女の子のNaoである。
彼女は英語とドイツ語ができた。
いや、ペラペラだったのかどうかは定かではないのだが、少なくともMarisaとコミュニケーションが図れる唯一の女の子だった。
NaoとMarisaの間には、特別な友情が芽生えていたように思う。

僕達「一般人」は、Naoとはコミュニケーションしていたような気がするが、Marisaとそこまでコミュニケーションした覚えはない。
それはおそらく言語が通じなかったからだ。
ただ僕自身は、自分で開発した「レゴを使ってコマのようなものを組み立てて回してぶつけ合う」という、謎の新機軸の遊びにMarisaを引きこみ、言語ではないコミュニケーションを図っていたように思う。
MarisaはそれはもうExcitingにその遊びにのめり込んでいた。
遊びは万人共通の言語なのだ。

そうした体験から、僕は
「言語が通じなくてもコミュニケーションは図れる」
「でも、本当に深く友だちになろうとするとき、言語が通じたらもっといいだろう」

という二つを、幼稚園ぐらいの段階でぼんやりと思っていたのだった。

<つづく?>